『逝きし世の面影』渡辺京二 著 (第十章)一部抜粋
- 2014/08/28
- 15:31
逝きし世の面影 渡辺京二著(平凡ライブラリー)
第十章 子どもの楽園 (一部抜粋 1/1)
(388~389)
日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて
長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことで
わいわい騒いでいるのにでくわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の
愛用するところとなった。
事実、日本の市街では子どもであふれていた。スエソンによれば、日本の子どもは「少し大きく
なると外に出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りを転げまわっている」のだった。
1873(明治六)年から85年までいわゆるお傭い外国人として在日したネット―(1847~1909)は、
ワーグナー(1831~92)との共著『日本のユーモア』の中で、次のようなありさまを描写している。
「子供たちの主たる運動場は街上(中)である。……子供は交通のことなど少しも構わず、その
遊びに没頭する。かれらは歩行者や車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬車が、
独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、
すこしの迂り路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、
騎馬者や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」。
1872年から76年までおなじくお傭い外国人として在日したブスケもこう書いている。
「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧をあげており、
馬がそれをこわがるので馬の乗り手には大変迷惑である。親は子供たちを自由にとび回るに
まかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が馬の足下で子供を両腕で
抱きあげ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」。こういう情景はメアリ・フレイザーによれば、
明治二十年代になってもふつうであったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は
「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきへ移したり、
耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ
救いながらすすむ」のだった。
(390~393頁)
イザベラ・バードは明治十一年の日光での見聞として次のように書いている。「私はこれほど
自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは
手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや
祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの
愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時頃、十二人か十四人の
男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれの自分の腕に二歳にならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、
いっしょに遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。
その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題になっているらしい」。
彼女の眼には、日本人の子どもへの愛はほどんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。
男たちが子どもを腕の中に抱いている光景にはオールコックも注意をひかれた。「江戸の街頭や
店内で、はだかのキューピッドが、これまた裸に近い頑丈そうな父親の腕にだかれているのを
見かけるが、これはごくありふれた光景である。父親はこの小さな荷物をだいて、見るからに
なれた手つきでやさしく器用にあやしながら、あちこち歩きまわる」。このくだりにはワーグマンの
スケッチがついている。モースも父親が子どもと手をつなぎ、「何か面白いことがあると、
それが見えるように、肩の上に高くさし上げる」光景を、珍しげに書きとめている。
カッティンデーケは長崎での安政年間の見聞から、日本人の幼児教育はルソーが『エミール』で
主張するところとよく似ていると感じた。「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その
愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」。親はこどもの面倒をよく見るが、
自由に遊ばせ、ほどんど素裸で路上をかけ回らせる。子どもがどんなにヤンチャでも、
叱ったり懲らしたりしている有様を見たことがない。その程度はほとんど「溺愛」に達していて、
「彼らほど愉快で楽しそうな子どもたちは他所では見られない」。
日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも
十六世紀以来のことであったらしい。
十六世紀末から十七世初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンは
こう述べている。
「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解力を持っている。
しかしそのよい子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり
教育したりしないからである」。日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを
罰することは残酷だと言う」。かのフロイスも言う。「われわれの間ではふつう鞭で打って息子を罰する。
日本ではそういうことは滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである」。
ヒロンやフロイスが注目した事実は、オランダ長崎商館の館員たちによっても目に留められずには
おかなかった。ツュンベリンは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことは
ほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子どもを
打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。「船でも」というのは参府
旅行中の船旅を言っているのである。またフィッセルも「日本人の性格として、子供の無邪気な
行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」
と述べている。
(394頁)
日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを
聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も
見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。
私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子供が厄介をかけたり、言うことをきかなかったり
するのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術や
おどしかたは知られていないようだ」。
レガメは1899(明治32)年に再度来日を果たしたが、神戸のあるフランス人宅に招かれた時のことを
こう記している。「デザートのとき、お嬢さんを寝かせるのにひと騒動。お嬢さんは4人で、当の
彼女は一番若く七歳である。『この子を連れて行きなさい』と、日本人の召使に言う。叫ぶ声がする。
一瞬後に子供はわめきながら戻ってくる。…これは婦人の言ったままの言葉だが、日本人は子供を
怖がっていて服従させることができない。むしろ彼らは子供を大事にして見捨ててしまう」。つまり
日本人メイドは、子供をいやいや服従させる手練手管を知らなかったのだ。日本の子どもには、親の
言いつけを聞かずに泣きわめくような習慣はなかった。だから日本人の召使はそういうフランス少女を、
どう扱ってよいかわからなかったのである。そしてまた、後述するように日本の子どもは、大人が楽しむ
ときにひとり個室に追い払われることもなかった。日本の子どもが泣かないのは、モースの言葉を借りれば、
「刑罰もなく、咎められることもなく、叱られることもなく、うるさくぐずぐず言われることもない」
からであろう。だがそれは一面では、子どもの方が親に対して従順で、叱られるようなことをせず、
従って泣く必要もなかったということなのだ。モースは「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬する
こと、日本の子供に如くものはない」と言っている。またブスケも、日本の子どもはたしかに
あまやかされているが、フランスの庶民の子どもよりよく躾られていると感じた。マクレイは
一方では日本の「親は子供をひどく可愛がり甘やかす」といいながら、「同時に子供に対して
手綱を放さない」と見ている。
(409~411頁)
スエソンによれば「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で。ニューベルグのおもちゃ屋にも
ひけをとらない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、
大人でさえ何時間も楽しむことができる」。ヒューブナーは言う。「玩具を売っている
店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、
美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力も
ないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、
暇なときにはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。
私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た」。
フォーチュンも「あらゆる種類の玩具が豊富に揃っていて、中にはまことにうまく
出来ていて美しいのがある」のに感心した。「おもちゃの商売がこんなに繁昌している
ことから、日本人がどんなに子どもを好いているかがわかる」。オズボーンの見るところも
彼と等しい。これは川崎大師へ遠乗りした時の品川郊外での見聞である。「道に
群れている沢山の歩行者の中に、市場から家路を急ぐ農夫たちの姿があった。
大都会で何か買物したものを抱えているのだが、この気のいい連中のうち、子どもの
おもちゃを手にしていないものはごく稀であることに目がひかれた。おもちゃ屋がずいぶん
多いことにすでにわれわれは気づいていた。こういったことは、この心の温かい国民が、
社会の幼いメンバーにいかにたっぷりと愛を注いているかということの証拠だろう」。
子供の遊びの問題を研究すれなば、「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、
また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに
尊敬したくなってくる」とグリフィスは言う。
そしてモースもまた述べる。
「日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。
また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない」。
グリフィスは横浜に上陸して初めて日本の子どもを見た時、「何とかわいい子供。
まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」という感想を持った。またスエソンは
「どの子も健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、
仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」と感じた。
彼らが「幸せに育っているのはすぐに分かっ」た。「子供は大勢いるが、明るく朗らかで、
色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。…彼らと親しくなると、
とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気付く」と言うのはパーマーである。
・・・・・・・・・・・・チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しさを
大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。
日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けている
ほどである」。モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛い子供」だった。
かつてこの国の子どもが、このような可愛さで輝いていたというのは、なにか今日の
私たちの胸を熱くさせる事実だ。
(417~418頁)
盲愛とはもっとも純粋な愛のかたちなのかもしれない。すくなくとも、中勘助(1885~1965)の
『銀の匙』に描かれた「伯母さん」の、主人公たる少年への盲愛ぶりは、私たちにそのように
感じさせるなにものかが存在する。中の年譜によれば、この人は彼の母の一番上の姉という
ことだが、勘助が生まれる頃は中家に寄寓していて、どういう事情があったのか母代わりの
ようにして勘助を育てた。つまり彼女は、ベーコンのいうあの不幸にして幸せなおばさんの
一人だったのである。『銀の匙』の前篇はこの伯母にからむ思い出で成り立っている。母親は
ほとんど出てこない。この人の夫はもともと小身ながら、美濃今尾張の藩士であった。
夫婦そろってお人好しで、秩禄処分で出たわずかなお金も人に借り倒され、夫はコレラで亡く
なって旧今尾張藩主の家扶として東京へ出ていた中家に寄寓するようになったのである。
勘助は外に出る時は必ずこの伯母に負われ、五つくらいまではほとんど土の上に降りたことが
なかった。この子は人間というものが怖い子どもで、伯母に負われて近所へ遊びに行くほかは、
家にこもってこの伯母と遊ぶのが日課だった。
彼女は戦さ道具をひと揃いもっていて、勘助には烏帽子をかぶせ刀を差させて、
自分は薙刀とった鉢巻姿で廊下で山崎合戦を演じるのだった。勘助は加藤清正、
彼女は四天王但馬守で、最後は清正が四天王の首をとるのである。彼女は立ち廻りに息をからして
立ち上がれぬこともあった。おそらく五十路にかかっていたのだろう。目が悪くて、
外に出るときは勘助に鈴をさげさせていた。勘助はひよわで食が細かった。そこで彼女は庭の
築山を東海道に見立てて、お伊勢参りの趣向でぐるぐる歩き廻らせたあげく、石灯籠に柏手を打って
弁当をひらく。説話まじりに偏食の彼の気をひきながら、竹の子や蛤を食べさせる。自分で
箸をとらないと、小さな茶碗を口にあてがって、「すずめごだ、すずめごだ」といいながら
たべさせてくれる。
彼女は漢字は読めなかったがおそるべき博聞強記で、勘助にありとあらゆる説話を語ってくれた。
彼はそのようにして賽の河原の巡礼歌も、千本桜の初音の鼓の話もおぼえた。百人一首も彼女の
口移しで覚えた。彼女は大の信心家で、おなじく大の迷信家だった。勘助は彼女から、夏雲の
形に文殊や普賢菩薩の姿を見ることを教わった。彼女は別に勘助を教育しようと思ったのでは
ない。この病弱で人みしりする子がただ盲目的に可愛かったのである。彼女は自分のすべてを
この子に注ぎこんだ。びっこの鶏を見ても涙する人であった彼女は、万物が愛と涙の対照である
この世界に、この子とたったふたりで棲んでいたかったのである。
勘助は明治33年、中学三年のとき、故郷でわび住まいをしている彼女を訪ねた。彼女は眼の見えぬ
老婆になっていた。その不自由なからだで彼女は魚屋へ足を運び、勘助に夕食を作ってくれた。
皿には二十数匹の鰈が並んだ。勘助のために店の鰈をありったけ買い求めたのである。彼女が世を
去ったのはそれから間もなくのことだった。
ふたたび言う。子どもを可愛がるのは能力である。だがその能力はこの女人だけが授かっていた
のではない。それはこの国の滅び去った文明が、濃淡の差はあれ万人に授けた能力だった。
しかしこの盲愛に近い子どもへの愛情は、子どもの基本的な情感と自我意識につよい安定を
与えると同時に、一方では別種の問題を生じさせる可能性もあった。
******************************
ここから感想を。当方は子どもを生んでおらず
一般的な感想になるかと思うがご容赦を。
(前回も書いたが念を押したいのは、国際金融家らが明治初期マスコミや政府を使って
利用した国粋主義・国家神道や、日本人の特徴の協調性を上げ足取りしてきた
ナショナリズムのバッシングや、
近年の胡散臭い神道ブームと、私の思う種族を尊ぶ郷土愛とは全く別物である。)
ここ数年、iフォンやスマホが日本を席巻してからか、よりいっそう感じるのだが。
非常に気がかりなのは街で見かける日本の子供たちの表情と様相だ。
言われて久しいのは、経済に突出した国の子供より、発展していない国の子供たちは、
表情が豊かで生き生きと子供らしく、眼がきらきらしている、
という印象を報道写真やドキュメンタリー番組を見るにつけ
多くの人が感じてきたことであろう。
それは真実を物語っているのを説明するまでもないか。
それから思うに、日本の子供たちはこの数年で更に、子供らしさを失いつつあるように思う。
不安げで陰気な表情、あるいは懐疑的で怯えるような目つき、
逆に脈略のない馬鹿騒ぎや暴力性、絶えず体を奇妙に動かし落ち着きのない狂乱状態を目にする。
性的に挑発的な容姿の幼女。更にダイオキシンなどホルモン攪乱物質の悪影響なのか、
あるいは情報過多社会のせいなのか、体のサイズは子供でしかもひ弱でも、
表情や生理現象が大人の段階に達している子供だ…、と度々感じるのは私だけではないだろう。
原因の筆頭に考えられるのはあらゆるメディアからの精神的な悪影響に加え、
人工空間、環境汚染、食品汚染もかなり子供の健全な成長を阻害しているのは確かと言える。
国際化と言う詭弁を盾にマスコミや企業は内密に人口削減を目指し、
次世代を担う子供たちが増えぬよう食や環境の汚染、弱肉強食を助長する教育を通じ
問題発生への方策を講じている…としか思えない。
第十章に記されている…「既に16世紀から伝聞があり、
情深い子育て故に日本人の子供は泣かない、躾の行き届いた、世界で一等可愛い」として…
欧州人の定説だった、幕末までの日本の子供たちを全く想像できない。
異国の話かと思うほど、
現代日本の子供たちの様子は物質的豊かさに反し、
精神生活の貧しさが見受けられ、憐れで痛々しい。
電車でレストランでショッピングモールであらゆるところで泣き叫び、悲鳴を挙げている!!
見るに忍びない程に泣きじゃくる子供の感情に、冷淡で無関心な親を見かけたことも、
どなたも多少なりと記憶にあろう。
更には子供が犠牲になる大人の無関心や不注意による事件事故があまりにも多く、
もう日本末期を予感せざるを得ない状況、いま正に現在進行形なのである。
江戸社会まで「親が叱らないから子は泣かない、子が親になり叱られない子はまた泣かない。」
という良き連鎖があったという事実を私は知らなかった。
明治からあらゆる政治的戦略でそれを壊されていった。
偽情報による外からの価値観の刷り込みで、
「親が子を叱る。子が親になり叱るからまた子は泣く。そして恨みは次の時代へ」という
負の連鎖に変わったのである。私たちはこの負の連鎖の中で子育て、教育を受けてきた。
1868年から悪徳政治が始まって4~6世代目にあたる子孫が親としていま子育てをしている。
幕末までの人の良い、情深い、温かい人柄を育てる溢れんばかりの大人たちの情愛や良識は失われた。
心と形が一体化した美しい文明を失ったのである。
昨今、子どもへの愛情より大人はケイタイやら偽情報に関心や意識が搾取されている。
親や先生ら大人は子供への対応の稚拙さは目を覆いたくなる。
マスコミ鵜呑みの思考停止、西洋礼賛による言語退化、
自然への感受性鈍化、教育指針の混乱、躾の喪失、
大人の自己中心的感情や葛藤を子どもへ転嫁。
子どもは大人の…、社会の…鏡である。子どもの暗さは未来予想図でもある。
幕末当時に欧州米人が持ち込んできた教育観、
「大人と子ども、成熟と未熟という
二元論で分けて厳罰的な対応」は短絡的で、開国後から現代の日本の劣化を見れば、
西洋人の価値観は取るに足らない稚拙なものだったことは明白なのである。
何ら参考にする必要はなかったのだ。
子どもへ深い愛情を注いできた幕末までの日本人先祖を知れば、
欧州米人らは日本を劣化させる(精神的植民地)のが、本当の目的だったことも、
証明された、とも言えよう。
日本人の情緒的で美しい親子関係や大人と子供の成熟した対話、
身分差別年齢差別経済差別などない、大人も子供、老若男女、生きとし生けるもの…
みな一緒という平等社会があった。
江戸仕草…他人への気遣い、弱者への思いやり、良心や高潔さ、美意識、情緒こそが、
幕末までの日本の「根本的な平和社会」を
連綿と生み出して来た事実と関係性を知るべきである。
明治も後半になっては、幕末までの日本人特有の温かさ、人の良さが生かされる
社会風潮・その精神性は陰りを見せ、近代戦争によって
<国際金融家による資金極秘提供戦争(西南戦争~日清・日露・第二次世界大戦)>
無残に破壊され続けた。どんなに良き先祖のお陰で人の良い国民性であったとしても、
断続的な巨大戦争によって数十年間に渡って生死を分ける社会不安が蔓延した時期を経れば、
誰しも自分と家族の身を守ることだけに必死になろう。
江戸社会が平和社会を続けるために培った日本人精神の徳性や生活の知恵は、
どんなに踏ん張っても、もがいても守りようがなかった。欧州支配層が恣意的に
もたらした不幸な嵐であった。
それでも、昭和前期までは「人情」のなごりはあっただろうか。
だが、それさえ利用され、すり替えられたと思うのだ。
江戸社会が育んできた真実の「恩愛や義理人情や忠誠心」という徳性は、
隠蔽され、戦後の映画や小説、ドラマなどで
「義理人情や大和魂」という言葉はひとり歩きをして
〝ヤクザのような関係や愛国精神からの戦意〟にイメージを塗り替えられた。
あるいは、明治期から昭和初期の社会不安によって、厳格になってしまった
日本人の父母たちは、〝父親に暴力的な威厳さを、母親にやせ我慢や悲痛な苦労〟…の
印象を戦後教育やマスコミでイメージ付けし、あるいは軍国主義教育がベースとなった
全体主義の懲罰的教育、学歴競争激化の差別教育が波及した。
人格が歪になる教育方針へと、あっと言う間に変わってしまったのだ。
西洋人の厳罰的で粗野な教育は、戦後の荒廃しきった日本社会という土壌に
正にこの時期、根を下ろしたのである。
幕末までの動物的本能とも思える主体的な盲愛、素朴な心の触れ合いという、
その最も純粋な精神は霞んでしまって、
未だ日本人の精神性の根底で微かに支え続けているであろう、
それを認識することは、まったく無くなってしまった。
言うなれば「義理人情や恩愛や慈悲」はキリスト教的愛を軽々と超えていたのだ。
ユダキリ教に支配された義務感の〝愛〟という記号が
現代日本人の脳味噌を制御している。
徳川家康は「戦だけはするな」が遺訓だったという。その本意は、
人間精神の荒廃を憂えてのことだったであろう。
当方の話を引合いに出すのは憚られるが、
祖々母の孫への溺愛ぶりを母から子どもの頃よく聞かされた。
明治以前の大人全般の子どもへの情愛、勘助の伯母の盲愛、例えば家康の生い立ちも思えば、
親子愛は源流であっても、平和社会に於いて
他人と自分の境目を意識する必要がなく大人の姿勢が子どもを育てたのであろう。
現代は親子愛に焦点を当て限定する程に、親子が破壊されるという矛盾がある。
ユダキリの肉親愛が日本社会の風潮になったとも言えようか。
現代日本人が子どもへの対応は19世紀末の西洋人の慣習と似ている。
いやそう仕向けられたのだ。
人情が薄く規則や都合が優先される社会となって、
飴と鞭、ギブアンドテイクへと堕落したのである。
物やお金や環境だけ与えていても心は育たない。
義務感や契約でも決して子どもの心を育めない。
水や肥料を与えても、お天道様が当たっていないのではなかろうか。
第十章 子どもの楽園 (一部抜粋 1/1)
(388~389)
日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて
長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことで
わいわい騒いでいるのにでくわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の
愛用するところとなった。
事実、日本の市街では子どもであふれていた。スエソンによれば、日本の子どもは「少し大きく
なると外に出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りを転げまわっている」のだった。
1873(明治六)年から85年までいわゆるお傭い外国人として在日したネット―(1847~1909)は、
ワーグナー(1831~92)との共著『日本のユーモア』の中で、次のようなありさまを描写している。
「子供たちの主たる運動場は街上(中)である。……子供は交通のことなど少しも構わず、その
遊びに没頭する。かれらは歩行者や車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬車が、
独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、
すこしの迂り路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、
騎馬者や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」。
1872年から76年までおなじくお傭い外国人として在日したブスケもこう書いている。
「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧をあげており、
馬がそれをこわがるので馬の乗り手には大変迷惑である。親は子供たちを自由にとび回るに
まかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が馬の足下で子供を両腕で
抱きあげ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」。こういう情景はメアリ・フレイザーによれば、
明治二十年代になってもふつうであったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は
「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきへ移したり、
耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ
救いながらすすむ」のだった。
(390~393頁)
イザベラ・バードは明治十一年の日光での見聞として次のように書いている。「私はこれほど
自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは
手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや
祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの
愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時頃、十二人か十四人の
男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれの自分の腕に二歳にならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、
いっしょに遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。
その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題になっているらしい」。
彼女の眼には、日本人の子どもへの愛はほどんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。
男たちが子どもを腕の中に抱いている光景にはオールコックも注意をひかれた。「江戸の街頭や
店内で、はだかのキューピッドが、これまた裸に近い頑丈そうな父親の腕にだかれているのを
見かけるが、これはごくありふれた光景である。父親はこの小さな荷物をだいて、見るからに
なれた手つきでやさしく器用にあやしながら、あちこち歩きまわる」。このくだりにはワーグマンの
スケッチがついている。モースも父親が子どもと手をつなぎ、「何か面白いことがあると、
それが見えるように、肩の上に高くさし上げる」光景を、珍しげに書きとめている。
カッティンデーケは長崎での安政年間の見聞から、日本人の幼児教育はルソーが『エミール』で
主張するところとよく似ていると感じた。「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その
愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」。親はこどもの面倒をよく見るが、
自由に遊ばせ、ほどんど素裸で路上をかけ回らせる。子どもがどんなにヤンチャでも、
叱ったり懲らしたりしている有様を見たことがない。その程度はほとんど「溺愛」に達していて、
「彼らほど愉快で楽しそうな子どもたちは他所では見られない」。
日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも
十六世紀以来のことであったらしい。
十六世紀末から十七世初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンは
こう述べている。
「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解力を持っている。
しかしそのよい子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり
教育したりしないからである」。日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを
罰することは残酷だと言う」。かのフロイスも言う。「われわれの間ではふつう鞭で打って息子を罰する。
日本ではそういうことは滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである」。
ヒロンやフロイスが注目した事実は、オランダ長崎商館の館員たちによっても目に留められずには
おかなかった。ツュンベリンは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことは
ほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子どもを
打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。「船でも」というのは参府
旅行中の船旅を言っているのである。またフィッセルも「日本人の性格として、子供の無邪気な
行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」
と述べている。
(394頁)
日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを
聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も
見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。
私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子供が厄介をかけたり、言うことをきかなかったり
するのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術や
おどしかたは知られていないようだ」。
レガメは1899(明治32)年に再度来日を果たしたが、神戸のあるフランス人宅に招かれた時のことを
こう記している。「デザートのとき、お嬢さんを寝かせるのにひと騒動。お嬢さんは4人で、当の
彼女は一番若く七歳である。『この子を連れて行きなさい』と、日本人の召使に言う。叫ぶ声がする。
一瞬後に子供はわめきながら戻ってくる。…これは婦人の言ったままの言葉だが、日本人は子供を
怖がっていて服従させることができない。むしろ彼らは子供を大事にして見捨ててしまう」。つまり
日本人メイドは、子供をいやいや服従させる手練手管を知らなかったのだ。日本の子どもには、親の
言いつけを聞かずに泣きわめくような習慣はなかった。だから日本人の召使はそういうフランス少女を、
どう扱ってよいかわからなかったのである。そしてまた、後述するように日本の子どもは、大人が楽しむ
ときにひとり個室に追い払われることもなかった。日本の子どもが泣かないのは、モースの言葉を借りれば、
「刑罰もなく、咎められることもなく、叱られることもなく、うるさくぐずぐず言われることもない」
からであろう。だがそれは一面では、子どもの方が親に対して従順で、叱られるようなことをせず、
従って泣く必要もなかったということなのだ。モースは「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬する
こと、日本の子供に如くものはない」と言っている。またブスケも、日本の子どもはたしかに
あまやかされているが、フランスの庶民の子どもよりよく躾られていると感じた。マクレイは
一方では日本の「親は子供をひどく可愛がり甘やかす」といいながら、「同時に子供に対して
手綱を放さない」と見ている。
(409~411頁)
スエソンによれば「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で。ニューベルグのおもちゃ屋にも
ひけをとらない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、
大人でさえ何時間も楽しむことができる」。ヒューブナーは言う。「玩具を売っている
店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、
美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力も
ないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、
暇なときにはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。
私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た」。
フォーチュンも「あらゆる種類の玩具が豊富に揃っていて、中にはまことにうまく
出来ていて美しいのがある」のに感心した。「おもちゃの商売がこんなに繁昌している
ことから、日本人がどんなに子どもを好いているかがわかる」。オズボーンの見るところも
彼と等しい。これは川崎大師へ遠乗りした時の品川郊外での見聞である。「道に
群れている沢山の歩行者の中に、市場から家路を急ぐ農夫たちの姿があった。
大都会で何か買物したものを抱えているのだが、この気のいい連中のうち、子どもの
おもちゃを手にしていないものはごく稀であることに目がひかれた。おもちゃ屋がずいぶん
多いことにすでにわれわれは気づいていた。こういったことは、この心の温かい国民が、
社会の幼いメンバーにいかにたっぷりと愛を注いているかということの証拠だろう」。
子供の遊びの問題を研究すれなば、「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、
また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに
尊敬したくなってくる」とグリフィスは言う。
そしてモースもまた述べる。
「日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。
また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない」。
グリフィスは横浜に上陸して初めて日本の子どもを見た時、「何とかわいい子供。
まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」という感想を持った。またスエソンは
「どの子も健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、
仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」と感じた。
彼らが「幸せに育っているのはすぐに分かっ」た。「子供は大勢いるが、明るく朗らかで、
色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。…彼らと親しくなると、
とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気付く」と言うのはパーマーである。
・・・・・・・・・・・・チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しさを
大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。
日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けている
ほどである」。モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛い子供」だった。
かつてこの国の子どもが、このような可愛さで輝いていたというのは、なにか今日の
私たちの胸を熱くさせる事実だ。
(417~418頁)
盲愛とはもっとも純粋な愛のかたちなのかもしれない。すくなくとも、中勘助(1885~1965)の
『銀の匙』に描かれた「伯母さん」の、主人公たる少年への盲愛ぶりは、私たちにそのように
感じさせるなにものかが存在する。中の年譜によれば、この人は彼の母の一番上の姉という
ことだが、勘助が生まれる頃は中家に寄寓していて、どういう事情があったのか母代わりの
ようにして勘助を育てた。つまり彼女は、ベーコンのいうあの不幸にして幸せなおばさんの
一人だったのである。『銀の匙』の前篇はこの伯母にからむ思い出で成り立っている。母親は
ほとんど出てこない。この人の夫はもともと小身ながら、美濃今尾張の藩士であった。
夫婦そろってお人好しで、秩禄処分で出たわずかなお金も人に借り倒され、夫はコレラで亡く
なって旧今尾張藩主の家扶として東京へ出ていた中家に寄寓するようになったのである。
勘助は外に出る時は必ずこの伯母に負われ、五つくらいまではほとんど土の上に降りたことが
なかった。この子は人間というものが怖い子どもで、伯母に負われて近所へ遊びに行くほかは、
家にこもってこの伯母と遊ぶのが日課だった。
彼女は戦さ道具をひと揃いもっていて、勘助には烏帽子をかぶせ刀を差させて、
自分は薙刀とった鉢巻姿で廊下で山崎合戦を演じるのだった。勘助は加藤清正、
彼女は四天王但馬守で、最後は清正が四天王の首をとるのである。彼女は立ち廻りに息をからして
立ち上がれぬこともあった。おそらく五十路にかかっていたのだろう。目が悪くて、
外に出るときは勘助に鈴をさげさせていた。勘助はひよわで食が細かった。そこで彼女は庭の
築山を東海道に見立てて、お伊勢参りの趣向でぐるぐる歩き廻らせたあげく、石灯籠に柏手を打って
弁当をひらく。説話まじりに偏食の彼の気をひきながら、竹の子や蛤を食べさせる。自分で
箸をとらないと、小さな茶碗を口にあてがって、「すずめごだ、すずめごだ」といいながら
たべさせてくれる。
彼女は漢字は読めなかったがおそるべき博聞強記で、勘助にありとあらゆる説話を語ってくれた。
彼はそのようにして賽の河原の巡礼歌も、千本桜の初音の鼓の話もおぼえた。百人一首も彼女の
口移しで覚えた。彼女は大の信心家で、おなじく大の迷信家だった。勘助は彼女から、夏雲の
形に文殊や普賢菩薩の姿を見ることを教わった。彼女は別に勘助を教育しようと思ったのでは
ない。この病弱で人みしりする子がただ盲目的に可愛かったのである。彼女は自分のすべてを
この子に注ぎこんだ。びっこの鶏を見ても涙する人であった彼女は、万物が愛と涙の対照である
この世界に、この子とたったふたりで棲んでいたかったのである。
勘助は明治33年、中学三年のとき、故郷でわび住まいをしている彼女を訪ねた。彼女は眼の見えぬ
老婆になっていた。その不自由なからだで彼女は魚屋へ足を運び、勘助に夕食を作ってくれた。
皿には二十数匹の鰈が並んだ。勘助のために店の鰈をありったけ買い求めたのである。彼女が世を
去ったのはそれから間もなくのことだった。
ふたたび言う。子どもを可愛がるのは能力である。だがその能力はこの女人だけが授かっていた
のではない。それはこの国の滅び去った文明が、濃淡の差はあれ万人に授けた能力だった。
しかしこの盲愛に近い子どもへの愛情は、子どもの基本的な情感と自我意識につよい安定を
与えると同時に、一方では別種の問題を生じさせる可能性もあった。
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ここから感想を。当方は子どもを生んでおらず
一般的な感想になるかと思うがご容赦を。
(前回も書いたが念を押したいのは、国際金融家らが明治初期マスコミや政府を使って
利用した国粋主義・国家神道や、日本人の特徴の協調性を上げ足取りしてきた
ナショナリズムのバッシングや、
近年の胡散臭い神道ブームと、私の思う種族を尊ぶ郷土愛とは全く別物である。)
ここ数年、iフォンやスマホが日本を席巻してからか、よりいっそう感じるのだが。
非常に気がかりなのは街で見かける日本の子供たちの表情と様相だ。
言われて久しいのは、経済に突出した国の子供より、発展していない国の子供たちは、
表情が豊かで生き生きと子供らしく、眼がきらきらしている、
という印象を報道写真やドキュメンタリー番組を見るにつけ
多くの人が感じてきたことであろう。
それは真実を物語っているのを説明するまでもないか。
それから思うに、日本の子供たちはこの数年で更に、子供らしさを失いつつあるように思う。
不安げで陰気な表情、あるいは懐疑的で怯えるような目つき、
逆に脈略のない馬鹿騒ぎや暴力性、絶えず体を奇妙に動かし落ち着きのない狂乱状態を目にする。
性的に挑発的な容姿の幼女。更にダイオキシンなどホルモン攪乱物質の悪影響なのか、
あるいは情報過多社会のせいなのか、体のサイズは子供でしかもひ弱でも、
表情や生理現象が大人の段階に達している子供だ…、と度々感じるのは私だけではないだろう。
原因の筆頭に考えられるのはあらゆるメディアからの精神的な悪影響に加え、
人工空間、環境汚染、食品汚染もかなり子供の健全な成長を阻害しているのは確かと言える。
国際化と言う詭弁を盾にマスコミや企業は内密に人口削減を目指し、
次世代を担う子供たちが増えぬよう食や環境の汚染、弱肉強食を助長する教育を通じ
問題発生への方策を講じている…としか思えない。
第十章に記されている…「既に16世紀から伝聞があり、
情深い子育て故に日本人の子供は泣かない、躾の行き届いた、世界で一等可愛い」として…
欧州人の定説だった、幕末までの日本の子供たちを全く想像できない。
異国の話かと思うほど、
現代日本の子供たちの様子は物質的豊かさに反し、
精神生活の貧しさが見受けられ、憐れで痛々しい。
電車でレストランでショッピングモールであらゆるところで泣き叫び、悲鳴を挙げている!!
見るに忍びない程に泣きじゃくる子供の感情に、冷淡で無関心な親を見かけたことも、
どなたも多少なりと記憶にあろう。
更には子供が犠牲になる大人の無関心や不注意による事件事故があまりにも多く、
もう日本末期を予感せざるを得ない状況、いま正に現在進行形なのである。
江戸社会まで「親が叱らないから子は泣かない、子が親になり叱られない子はまた泣かない。」
という良き連鎖があったという事実を私は知らなかった。
明治からあらゆる政治的戦略でそれを壊されていった。
偽情報による外からの価値観の刷り込みで、
「親が子を叱る。子が親になり叱るからまた子は泣く。そして恨みは次の時代へ」という
負の連鎖に変わったのである。私たちはこの負の連鎖の中で子育て、教育を受けてきた。
1868年から悪徳政治が始まって4~6世代目にあたる子孫が親としていま子育てをしている。
幕末までの人の良い、情深い、温かい人柄を育てる溢れんばかりの大人たちの情愛や良識は失われた。
心と形が一体化した美しい文明を失ったのである。
昨今、子どもへの愛情より大人はケイタイやら偽情報に関心や意識が搾取されている。
親や先生ら大人は子供への対応の稚拙さは目を覆いたくなる。
マスコミ鵜呑みの思考停止、西洋礼賛による言語退化、
自然への感受性鈍化、教育指針の混乱、躾の喪失、
大人の自己中心的感情や葛藤を子どもへ転嫁。
子どもは大人の…、社会の…鏡である。子どもの暗さは未来予想図でもある。
幕末当時に欧州米人が持ち込んできた教育観、
「大人と子ども、成熟と未熟という
二元論で分けて厳罰的な対応」は短絡的で、開国後から現代の日本の劣化を見れば、
西洋人の価値観は取るに足らない稚拙なものだったことは明白なのである。
何ら参考にする必要はなかったのだ。
子どもへ深い愛情を注いできた幕末までの日本人先祖を知れば、
欧州米人らは日本を劣化させる(精神的植民地)のが、本当の目的だったことも、
証明された、とも言えよう。
日本人の情緒的で美しい親子関係や大人と子供の成熟した対話、
身分差別年齢差別経済差別などない、大人も子供、老若男女、生きとし生けるもの…
みな一緒という平等社会があった。
江戸仕草…他人への気遣い、弱者への思いやり、良心や高潔さ、美意識、情緒こそが、
幕末までの日本の「根本的な平和社会」を
連綿と生み出して来た事実と関係性を知るべきである。
明治も後半になっては、幕末までの日本人特有の温かさ、人の良さが生かされる
社会風潮・その精神性は陰りを見せ、近代戦争によって
<国際金融家による資金極秘提供戦争(西南戦争~日清・日露・第二次世界大戦)>
無残に破壊され続けた。どんなに良き先祖のお陰で人の良い国民性であったとしても、
断続的な巨大戦争によって数十年間に渡って生死を分ける社会不安が蔓延した時期を経れば、
誰しも自分と家族の身を守ることだけに必死になろう。
江戸社会が平和社会を続けるために培った日本人精神の徳性や生活の知恵は、
どんなに踏ん張っても、もがいても守りようがなかった。欧州支配層が恣意的に
もたらした不幸な嵐であった。
それでも、昭和前期までは「人情」のなごりはあっただろうか。
だが、それさえ利用され、すり替えられたと思うのだ。
江戸社会が育んできた真実の「恩愛や義理人情や忠誠心」という徳性は、
隠蔽され、戦後の映画や小説、ドラマなどで
「義理人情や大和魂」という言葉はひとり歩きをして
〝ヤクザのような関係や愛国精神からの戦意〟にイメージを塗り替えられた。
あるいは、明治期から昭和初期の社会不安によって、厳格になってしまった
日本人の父母たちは、〝父親に暴力的な威厳さを、母親にやせ我慢や悲痛な苦労〟…の
印象を戦後教育やマスコミでイメージ付けし、あるいは軍国主義教育がベースとなった
全体主義の懲罰的教育、学歴競争激化の差別教育が波及した。
人格が歪になる教育方針へと、あっと言う間に変わってしまったのだ。
西洋人の厳罰的で粗野な教育は、戦後の荒廃しきった日本社会という土壌に
正にこの時期、根を下ろしたのである。
幕末までの動物的本能とも思える主体的な盲愛、素朴な心の触れ合いという、
その最も純粋な精神は霞んでしまって、
未だ日本人の精神性の根底で微かに支え続けているであろう、
それを認識することは、まったく無くなってしまった。
言うなれば「義理人情や恩愛や慈悲」はキリスト教的愛を軽々と超えていたのだ。
ユダキリ教に支配された義務感の〝愛〟という記号が
現代日本人の脳味噌を制御している。
徳川家康は「戦だけはするな」が遺訓だったという。その本意は、
人間精神の荒廃を憂えてのことだったであろう。
当方の話を引合いに出すのは憚られるが、
祖々母の孫への溺愛ぶりを母から子どもの頃よく聞かされた。
明治以前の大人全般の子どもへの情愛、勘助の伯母の盲愛、例えば家康の生い立ちも思えば、
親子愛は源流であっても、平和社会に於いて
他人と自分の境目を意識する必要がなく大人の姿勢が子どもを育てたのであろう。
現代は親子愛に焦点を当て限定する程に、親子が破壊されるという矛盾がある。
ユダキリの肉親愛が日本社会の風潮になったとも言えようか。
現代日本人が子どもへの対応は19世紀末の西洋人の慣習と似ている。
いやそう仕向けられたのだ。
人情が薄く規則や都合が優先される社会となって、
飴と鞭、ギブアンドテイクへと堕落したのである。
物やお金や環境だけ与えていても心は育たない。
義務感や契約でも決して子どもの心を育めない。
水や肥料を与えても、お天道様が当たっていないのではなかろうか。
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